NO-203 2/1日付 The Asahi Simbun GLOBEの記事、シカ激増で変わる保護のあり方、を読んで。
環境省は日本にける環境管理の責任を負っていない。また主導的模範も示さず責任放棄をしているようにも見える。環境と人間や生物の関わりの総合的な知識も持ち合わせてはおらず、自然と生物と人間の関係性における理想像の提示もできていない。それゆえオオカミの存在は日本の生態系にとって重要なのだが取るに足らない、些細な方策と見ているのか。オオカミ導入という要望を投げ掛けられたならその可能性について十分な検証をするのが仕事ではなかろうか。それどころかそのような検証を怠っているにもかかわらず、外来種では?危険では?との懸念を持ち、その立証もせずにそれを盾に傍観を決め込んでいる。一方で更なる狩猟圧を上げるために麻酔銃や夜間の猟を押し進めようとしているのである。
これでは未だに人間が自然環境をコントロールできると尊大な思い違いをして信じているようだ。人間にできる唯一の環境保護は手つかずの自然であれば人間の数を適正な人口に留める知恵であり、オオカミのように頂点捕食者を失ったのであればそれを元に取り戻すことである。つまり太古からの日本の自然環境をできる限り保存維持、回復することであるが、それのみが環境省の取り組むべき仕事ではなかろうか。それにも拘らず高山植物には網を張り、農作物には電柵を張り巡らし、山林はワナや狩猟で守れるとまじめに信じているのだろうか。網や電柵で延々と里山や集落を取り囲み景観は悪化するのみであるが、これでも環境省の対策の成果が示されていると誇りたいのか。高学歴のエリート集団であるはずの国民から期待される存在でありながら、そのなかに1人も不自然な施策に異議を唱え、オオカミ導入を検討しようという人は誰もいないのだろうか。イエローストンやヨーロッパでのオオカミ導入や保護の運動が功を奏していることに目を背ける理由はなにか。
もはや環境省は自然環境に身を置く本来の人間から遠く離れた堕落した人間の集団のように見える。本来の人間とは厳しい自然環境の中で自然と調和し生きる術を自然から学び経験し生きる人間のことである。人間の堕落とは一言でいうならば人間の権利と義務を放棄することである。つまり生存の権利と生存のための義務を国家機関でありながら果たしていないのである。
堕落や軟弱は人口過剰によっても引き起こされる。人口の増加に伴って田舎や自然豊かな生活環境から閉め出されあぶれた人々は都会へと出て行かざるを得なくなる。そうすると自然のなかでの自給自足的な生活様式から掛け離れたコンクリートジャングルともいわれるビルのなかで、机上での仕事に明け暮れるうちに変化が生じる。それはお金によってすべての生活環境を整え生きるようになり、次第に自然環境との関わりやその尊さに疎くなる。食物はすべてお金によってまかなわれ、生産者の状況や自然環境の様相に無関心になる。政府が経済効果を最優先することに何の違和感もなく同調する。関心は目先の利害や景気の動向に払われ裕福な生活を求める。そして地位や名誉や財産を持ちセレブと呼ばれキャリヤといわれ世の第一線で働いていると自負する。高価な衣装で身を包み宝石で飾り一流ブランドを持ち歩く一般大衆と掛け離れた生活。
人間を生かしているもの、それはひとえに大自然が生成する空気、水、食物、などの恵みでありお金ではない。霞ヶ関のビルを仕事場としマンションに住み金と地位に頼って生き、それで安泰を決め込むならば大間違いだ。
ますます疲弊し荒廃しゆく日本の自然環境にあって食料だけを取ってみても自給率40%を切りつつあり、ひとたびことが起きるなら真っ先に食料難に陥るのは都市でありそこに住む人々である。そのような危うい状況のなかにあるからこそ、成すべきは作物を森林を生物多様生を含む自然環境の保護にあるといえよう。それゆえ日本における最大の自然保護運動は人口の抑制とオオカミ導入に尽きると断言できる。
地上の生物で人間のみが増殖し自然の浄化作用を超えて人口過剰となり搾取と破壊や汚染の繰り返しで地球環境を破壊し気象も狂わせているのである。
世界最大の問題、諸悪の根源それは人口過剰にある。日本も人口過剰であり際限のない弊害が生じている。まさに人類の存亡にかかわる重大な問題なのだ。しかしまったく不思議なことに国も自治体も責任ある人々も誰もそれを指摘しない。それはなぜか、人間は自然によって生かされているという感謝、自然を畏れる畏敬の念、自然と調和して生きる知恵、あらゆる生物と同等であるとの謙虚な姿勢、これらが失われてはいまいか。人間はいつのまにか自分で生きているのだと尊大になり、傲慢になり、そして自然環境に順応できなくなり軟弱になって堕落している。それ故、国家存亡の危機にありながら生存能力を欠いてしまって人口抑制やオオカミ導入による政策を立てられないでいるのだ。
それでも希望はある。自然を生業として生きる人々のみならず若い男女や都会の中にあってもそのことを理解している人々が、そしてまだオオカミについての認識のない一般大衆にもアンケート調査で明らかなようにオオカミ導入への潜在的な同意が見えるのである。